異文化交流史の舞台
―出島・唐寺・唐人屋敷―

長崎大学環境科学部  若 木 太 一


 近世の長崎は地理的条件もあって、異文化との接触を濃厚に受けた場所である。従来から長崎は「鎖国の窓」と称され東西文化の接点として歴史、文化史、医・科学史などの側面から語られてきた。
 ここで取り上げるのは、その象徴ともいえる西洋文化の流入口となった出島、中国文化を広めた唐寺(とうでら)、およびその生活面で濃厚な影響をうけた唐人屋敷である。
 「出島」とはどのような歴史と機能をもっていたのか。唐寺、唐人屋敷はどのような場所であったのか。これらを文化環境として観察してみたいと思う。ここでいう「環境」とは地理的な意味での空間だけではなく、諸科学をはじめ言語・習俗・歴史・思想・宗教・芸能などの諸分野にわたる機能的、媒質的環境を意味する。

  1. 出島
    長崎港のなかの小さな岬に出島が築造されたのは1634(寛永13)5月のことである。美しい扇形にデザインされた人工島は、面積3969坪1歩(約15387m2)で、対岸の江戸町とは一つの橋(ケンペルのころは石橋)で結ばれていた。  「島の形は、柄のない扇面、すなわち町の湾曲に沿って末広に開いた弧状の四辺形をなし、町とは一本の橋で連絡している」(ケンペル『日本誌』第6章)。  エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kampher 1651-1716)は1690(元禄3)年9月25日、オランダ商館の医師として出島に上陸し、1692(元禄5)年10月31日までここに滞在し、その間2度、将軍綱吉治世下の江戸参府を経験している。表門の出入り口は厳重なチェックがなされ、そこから正面の道を20メートルほど直進すると横長の十字路(江戸中期にはT字型)があり左右に通りが開いている。彼は自分で歩いてみて「普通の歩幅で幅は82歩、長さは湾曲に沿って中央部で236歩」と記している。その両側に家屋が建ち並ぶが、「建物は、非常に粗末で、一見山羊小屋みたいな外観であり、松の木の柱に粘土壁の2階建て、階下は荷造り場として使う物置部屋、階上が住居になっている。そこに住む人々が自費で壁紙を貼ったり、日本流に畳を敷き詰めたり、戸、障子を入れて住居をととのえるのである」という。
     出島の築造は「出島町人」とよばれる25人の共同出資者の事業としてできた。これらの住宅、倉庫はオランダ東インド会社の借り上げで、権利者である出島町人に賃貸料を支払った。建物は平戸のそれが堅牢な石積みであったのに比べてかなり貧相で、しかも「牢屋住まいにも等しい出島」だったと書いている。しかし彼らが、こうした賛美歌も歌えず、お祈りもままならない「恥辱的な制限」を受け、不自由を忍んだ理由はなんであったか。「オランダ人をしてこのような一切の苦難を堪え忍ばざるに至らしめた動機はただ一つ、儲けたい一心と、山国日本の高価な市場に対する執着に他ならない。おぞましきかな黄金欲」と告白している。その後もイザーク・ティチングや、フォン・シーボルトなど著名な学者がやって来てそれぞれ顕著な功績を残しているが、出島の機能と歴史をひもとくと経済的要素、文化史的要素をはじめとする多様な人間の欲望が顕れてくるのは興味深い。
  2. 唐寺
     長崎においては唐僧開場の寺院を唐寺と呼んでいる。それらは日中貿易が盛んになる近世初期、ほぼ同じころに開かれた。唐寺は貿易などのためにやって来た唐人が長崎に住み着き、定住するにしたがって帰依する檀場をもったことを意味する。日本人との結婚や帰化を含めて、「住居唐人」「住宅唐人」などと称されて定住が許され、やがて名家として栄誉を築いていった。かれらの多くは唐通事や貿易業務に従事して財をなし、知力、行動力を備えて信頼を受け、長崎の町に繁栄をもたらした。
     1623(元和9)年に興福寺が開創され、続いて1628(寛永5)年に福済寺、同6年崇福寺が開かれた。さらに隠元禅師が唐僧30人余とともに1654(承応3)年7月5日、興福寺に迎えられ開堂した。隠元の渡来は僧俗、貴賤に大いに歓迎されたばかりでなく、1661(寛文元)年8月、朝廷や幕府の援助をうけて宇治に黄檗山萬福寺が開かれ、ここに黄檗の存在は公的にも認知された。時に叢林内部に衰退の気分が瀰漫していた時期でもあり、貴賤ともに高僧渡来を心機一転の契機にと期待をもって迎えた様子がうかがえる。隠元禅師の渡来によって僧俗の黄檗帰依は、ある種の流行現象とでもいえそうな情況を迎える。1677(延宝5)年には宇治の新黄檗山の末寺として和僧を住持とする聖福寺が開創され、長崎は唐四ヶ寺体制となった。
  3. 唐人屋敷
     一方、清との交易が継続された20数年後の1689(元禄2)年、梅が崎丘陵地の薬園跡に約9600坪の唐人屋敷が設置された。オランダ東インド会社借用の出島と同じく、ここに在留中国人を市中の散宿から一ヶ所に集めて管理し、貿易業務の現場とし、そのために渡航した船頭や乗員たちの一時逗留の宿所とした。したがって当然のことであるが、密航、密貿易などを防ぐため出島と唐人屋敷の出入りは厳しく制限された。これにたいして唐寺は、いうまでもないが宗教施設であり、貴賤に開かれ、自由に参詣できる檀場であった。
     唐寺においては僧俗の間での臨済禅的風雅、書画や詩文をめぐる雅交が行われ、唐人屋敷では、出入りする官吏、商人、あるいは遊女たち、時には文人や観光客が紛れ込むといったような交流がなされた。どちらも媽祖、天妃を祀るが唐寺ではいわゆる黄檗文化、唐人屋敷では中華料理、明清楽など生活の諸相にかかわるものである。したがって文化交流の密度や質的な面で違いがあった。チャンポン・餃子、卓袱料理・精霊流し・おくんちの出し物蛇踊りなどは唐人屋敷の生活面での影響である。  こうした日中文化交流には背景がある。唐僧たちの東渡を促した中国では政変があった。女真族の勢力が明を圧倒し、首都北京が陥落するとまもなく清朝が発足した。この王朝交替は日本歴で寛永21年(1644)にあたり、その後鄭芝龍・鄭成功親子が明王朝を再興しようと反清活動を続けていた。その渦中で戦乱を避けて九州西南臨海域に亡命する明人も少なからずあった。のちに水戸に招かれた朱舜水はその一人である。黄檗僧の東渡は王朝交替と直接的関連はないようだが、いわゆる「華夷変態」(林鵞峯)と史的に位置づけられる中国の政変やアジア諸国の勢力変動が、その背景としてまったく無関係であったとは考えにくい。こうした異文化交流の舞台となった17〜18世紀の長崎を、出来るだけ具体的に展望してみたい。