超高磁場NMR 装置の進歩と構造生物学

都立大・理  甲斐荘 正恒



 核磁気共鳴現象が発見されてから半世紀を経て、かつては夢としか思えなかった1 GHz級の超高磁場 NMR装置が視野に入ってきたことは感慨深いものがある。この間、超伝導磁石の発達により測定装置の磁場強度が飛躍的に増大しただけではなく、それに伴う様々な測定技術、あるいは理論・実験面での弛まぬ進歩が、NMR を蛋白質や核酸等の生体高分子の立体構造決定手法としても大きく成長させた。昨年度策定された科学技術基本計画の中でも、今後重点的に育成すべき科学技術基盤の一つとして構造生物学がとりあげられている。そのなかで、X-線結晶解析法と並び、NMR 法が構造解析技術として重要な位置を与えられる機運にある。NMR 法の進歩の一端に関与してきた我々にとっても、NMR 技術が生体高分子の構造と機能の解明を目標とする構造生物学の分野においてもスポットライトを浴びつつあることは誠に喜ばしいことである。順風とも言えるこのような状況は、測定装置や技術面での一層の進歩にとっても歓迎すべきことであろう。 1945年にNMR 現象が実証されてから数年を経ずして市販のNMR 装置が現れた。最初の装置は30 MHz程度の低磁場装置であり、60年代初め迄は電磁石や永久磁石が主として用いられたために、最高磁場強度は2.3 テスラ (100MHz)に過ぎなかった。このような、磁場強度と当時の測定技術をもってしてはNMR は悪名高い" 低感度" 分光学であった。測定感度はエチルベンゼン(1% 溶液) のメチレンシグナルの最大ピークを雑音との比で表されるが、最初の分析用 60MHz装置 (Varian A60) では6.5 に過ぎず、60年代の主力機種となった100 MHz 装置でも当初は高々25程度であった。
 しかしながら、60年代の半ばに開発されたVarian 社の200/220 MHz 装置は初めての超伝導磁石を用いる高磁場 NMR 装置として信号/雑音比 70 を誇り、NMR 研究者の垂涎の的となった。我が国においては、1969年末に京都大学工学部 (米沢研究室) にVarian HR-220 (220MHz) が設置され、1977年に東京大学理学部 (宮澤研究室)に最初のフーリエ変換 (FT) NMR 型の超伝導装置ブルーカー社WH-270 (270MHz) が設置されるまで、我が国唯一の高磁場NMR 装置として大いに活躍した。WH-270は当時としては画期的な高感度装置ではあったが、それでも高々300 足らずのものであった。
 世界における先端的な生体系NMR 研究は、例外なく270-360 MHz 級の高感度超伝導 NMR 装置を縦横に利用して、70年代にその後の構造生物学への展開のための基盤を築くことができた。 測定装置の導入や専門研究者の育成を怠った我が国の研究は、この時点から世界の趨勢から大きく立ち遅れることになる。ただし、我々研究者が事態を傍観していた訳ではない。実際、ようやく270MHz NMR が登場した1971年には早くも、東京大学和田教授 (当時) を中心に、600MHz 級のFT-NMR 装置を中心とする生体高分子研究所のプロジェクトを策定した。この概要は「NMR の生体高分子のへの応用」( 共立出版、1973) にまとめられている。この計画には、多くの先端的・意欲的な研究項目が盛り込まれており、実施に移されることなく終わってしまったことは誠に残念であった。その後、生体高分子研究は測定装置の高磁場化 (図-1) とともに順調に発展を続け、70年代半からスイス工科大学 Ernst教授等の努力により発展を遂げた。この新しいNMR 測定技術が、80年代初頭には蛋白質の構造決定に有力な手段となることが、同じスイス工科大学のWuethrich 教授等により明らかにされるに及んで、NMR 分光学は単なる低分子化合物の分析手法から脱却し、生体高分子の立体構造決定手段としての地位を獲得した。

この間、磁場強度は既に 500MHz に達しており、測定感度も1%試料を用いる定義では1000 を遥かに越えてしまうために、0.1% の標準試料を用いて測定されるようになった。現在は、市販の最高磁場強度は 800MHz に到達しており、装置面での多くの進歩にも助けられて、信号/雑音比は0.1%試料を用いても 2000 に達する。30余年前に登場した分析用装置 A-60 の6.5 (1% 試料) から較べると、この間の感度向上は約3000倍であり、このことは同じ信号強度を得るためにはかつての1/3000 の試料濃度で十分であることに相当する。NMR シグナル は繰り返し積算により感度を向上させるが、それに要する積算時間はかつての1000万分の1に短縮される。

 高磁場化の努力は今後も絶え間無く続けられ、測定感度の向上やシグナルの分離能の向上を通じてNMR 分光学の立体構造決定手法としての能力アップに大いに貢献することは疑いないところである。しかしながら、NMR の役割は立体構造の決定手段に留まらない。むしろ、構造生物学の究極的な目標である立体構造から機能を理解するためには、様々な時間領域で起こる蛋白質や核酸の揺らぎに関する情報が必要となる。講演では、NMR の構造生物学への応用に関する様々な話題を、過去から現在につながる流れとして紹介し、ひいては今後の超高磁場装置の開発を含め、新しい技術進歩への期待を述べたいと思う。